昭和43年8月3日 朝の御理解

◎眞の信心とは、何かという時、迷うのでなく、この神様にかける、命を一生かけるという神様に近寄る信心


 X御理解第二十四節  「人に誘われて、しょうことなしの信心は、つけ焼き刃の信心じゃ。つけ焼き刃の信心は取れ易いぞ。どうぞ、其の身から打ち込んでの真の信心をせよ。世に勢信心という事を言うが、一人で持ち上がらぬ石でも、大勢かけ声で一度に力をそろえれば持ち上がる。ばらばらでは持ち上がらぬぞ。家内中、勢をそろえた信心をせよ。」

 誰でも初めの間は、人に誘われ、導かれてお参りするのですけれども、そこからおかげを受けていく。そこから信心が分かっていく。そうゆう意味じゃない。そこから、段々神様のお心をここに表現してありますが、神様がたのむように「どうぞ其の身から打ち込んでの信心をせよ」とおっしゃってあります。しかも「打ち込んでの真の信心をせよ」とあります。
 これがその身から打ち込んだ信心、心から打ち込んだ信心が出来ておりませんと「真の信心をせよ」とおっしゃるが「真の信心」になれないのです。これは、「心から打ち込んでの信心をせよ」とおっしゃるのが、「真の信心」になれないのです。何故って、信心しておりますとしても、迷わねばならない様な事があるからなのです。その身から打ち込んだ信心をしておりませんと、いわゆる打ち込んだ信心をしておるからと云うて、平穏無事とゆう事はない。
 だから、段々そうゆう様にならにゃでけん。「私が一生かけておすがりするのは、この神様以外にはない。私の幸せは、この神様にかけてある、この信心にかけられておる」私はまず、そうゆう信心を頂かにゃいかんと思う。「この神様にかける、命をかける、一生をかける」この身から打ち込んだ信心とは、そうゆう信心だと思う。
 誰だって初めは、誰かに誘われた、導かれた、そしてお参りをする。おすがりをさせて頂く、おかげを頂いて神様がわかるようになる、お話を聞けば聞く程に、私ども人間と切っても切れる事のない神様である事が分からせてもらう。金光教の信心がどうゆうものであるか分かる。
 ですから、事の事態がどうなろうと、一生かけての信心であるとゆう思い込みが出来る。そこを私は、その身から打ち込んでの信心と思う。そん時だけ、打ち込んだ信心じゃつまらん。「今日の御理解ありがたかったですね」どこがありがたかったですか、それはその人その人によって違うのです。けれどもその御理解を解いて下さる本当の「神徳」とも申しましょうか、「ここが分かって下さい」と云うてわかってない、枝葉のところが分かってそこを行じてもおかげにならぬ。しかも、それを勢信心と云うておられます。お前だけではない。家族中の者がそうゆう気になれとおっしゃってある時には一家が勢をそろえなければ。
 大阪の阿部野とゆう、日本一的な教会があります。朝のお参りがなんと千人あるそうです。もうほとんどが商売人、それでどうしてそんなにお参りが多いかと云うとですね、朝の御祈念に一家中あげて参ってくるそうです。女中さん、小僧さん、番頭さんまで皆んな参ってくる。ですから、百件の信者があって、十人ずつ参ってくると千人にもなるのです。それが、主人なら主人が信心するでしょう。お店の手形があるとゆう様な時、とにかく難しかとゆう時、主人が番頭さん達にたのむのです。こんな訳だからあんた達もひとつ加勢してくれ、いわゆる勢信心を要求する訳です。それで、その女中さん達に至る迄が今日の手形の事を一生懸命願う訳なんです。それを先生がお取り次ぎなさる。これはもう間違いなしにおかげを受けるそうですね。
 そこで、その番頭さん達が店分かれをするでしょう。女中さんが嫁に行くでしょう。そして、神様が間違いなさを知ってるもんですから、嫁に行った先で又、勢信心を始める。番頭さんが店分かれをすると、その番頭さんが又勢信心を始まる。ですから、それこそ、もうねずみ算的にふえていく訳ですね。
 ですから、中心になる人の信心が眞の信心にならなきゃ出来ませんですね。主人が云われるからしよう事なしについて来るけれども、その信心の有り難さとゆうものがおかげを受けるとゆうだけでなくて、お話を頂く。ここに、こうゆう信心があった、しかもこの神様は、私共人間の幸せと云うか、いやもう私共と切っても切れない縁があるのだ、信心のあろうがなかろうがこの神様の御恩徳によらなければ、このお恵みに欲しなければ、生きる事も死ぬる事も、できない事だとゆう事が分かってくる。同時に成程、おかげを受けるもんですから、それが自分のものになっていく。やはり店員たる者主人に云われりゃ、いやと云う訳はいきませんよ。初めはお付き合いでお参りする、それが段々信心を頂いていく様になる。そして、普通ではどうにも出来ない問題が解決のおかげになっていく。これは商売だけの事じゃない、いっさいの事がそれなんだ。
 ですから、合楽に御神意を頂いておる一人一人の皆さんがです「その眞の信心をせよ」とおっしゃる眞の信心を目指さなければいけない。いわゆるそこに、その身から打ち込んでの信心、いわば命がけの信心、一生をかけての信心。でないとです、迷わねばならない様な事が起きてくる、人間の一生の中に、そうゆう時に直面して迷うたんじゃおかげにならん。
 X御理解二十三節に「氏子が神と仲善うする信心ぞ、神を怖れるようにすると、信心にならぬ、神に近寄るようにせよ」
 神に近寄るようにせよとは、神様のふところに深く、飛び込んでいくと云うか、神様にいよいよ接近する機会とゆうのは、そういつもザラにあるもんじゃない。「信心しよります、毎日お参りしとります」と云うて、神様のふところに飛び込んでおるとは云えない。それは稽古に通うておるだけ。そうゆう神様のお側近くと云うか、お心に触れていくとゆうチャンスは、そういつもあるもんじゃない。
 六月三十日に大祓式がありました。昨年は、お祓を受けた自動車が本当に奇跡と思われる程に無事故でおかげを頂いた。どんなに考えたって不思議です。お祓をうけた、受けただけでおかげを頂くと、神様は約束して下さった、ところが今年はそうじゃない、今年は、「今あるを嬉しといやびまつらなば、家に不幸の起こることなし」とゆう様な事であった。一年たった今日は、今あるを有り難いと分からして頂く信心、自動車に例えば乗らして頂くでも、本当に自動車を拝んで、乗らして頂く様な心がです、もう育っておらねばならんと云うのである。
 いわゆる、はえば立てと云う親心なのである。もう本当に一切の事に合掌して、例えどの様な事であっても、有り難しと、いやびまつる、お礼を申し上げる様な信心のおかげを頂けよとゆう事に今年の大祓式が済んで一月の間に、ここの御信者さんで三人事故があった。それぞれに、あとちょっとで命取りになる様なところを、いわゆる大難を小難のおかげを頂いてはおるが、わずか一月の間に三件もあった。そのどれを云うても「今あるを嬉しといやびまつらなば」と云うのが欠けておる。
 昨日、秋山さんが単車事故を起こして、そのお礼のお参りがあった、その時めぐりのお取り払いを頂きましてからと云うから、私がやられた時は、もうすぐさますみませんが出にゃいかんと申しました。叩かれたら、ああ痛いじゃいけん、それこそ、すぐ自分の心にぴしゃっとくる様なかんじがする、すみませんが先なのだ、と云うて申しました事ですけれどもね。それでもやはり、一月の間に三つ事故が起こるとゆう事に対してです、私はその事を神様にお願いさせて頂きよりましたら、先日頂きました、『「花が散るとき、蝶が死ぬ」とゆうところを頂くのです。その眞実とするところは、神様がそうゆう恋をしたいと云うのである。神様の方が思いをかけて、もう例えばその氏子がです、信心さして頂きよりまして、どの様な事が起こって参りましても、ゆうならば神様に手を握ってもらって、それで死ぬるとゆうのなら、もういといませんと云う様な心を求め給うのです。
 私はそれを頂いてから、本当にこれは、私自身の事を思うてみてです、私共、例えば目の前が真っ暗になる、云うならば、迷いが起きても、当然と言える中にあってです、迷いを起こさずに済んで、そのたんびに神様に深い心が分かり、神様のふところの中にいよいよ飛び込ましてもらい、神様のお心にいよいよ近づかせてもらった事を思うのです。
 そうゆう例えば難儀に直面した時です、より一段と神様の思いが分かっていくと云うか、もう、このまま目をつぶっても、いといませんとゆう様なもの、いわゆる恋愛の極致である。もう、このまま死んでもいいとゆう様な思いなのである。そうゆう例えば神様が、ゆうならモーションをかけておんなさる時ですよ。それを信心するのに、どうしてこの様な事が起こってくるのであろうかと云うたら、もうそこでガッカリ。
 だからこそ、「その身から打ち込んだ信心」もうその身からぞっこんとゆう事である。神様へ惚れ込むなら、打ち込めば神様も、その身から打ち込んで下さる。そうゆう信心がですね、様々な問題をとおして、分からして頂く。そうゆう信心を眞の信心、どうゆう時でも迷わない、迷うどころか、そうゆう時に一段と信心が飛躍してゆく、そうゆう時にいよいよ神様の奥の底が分かっていく。そして、このまま死んでもいといませんとゆう様な、神様のおかげの中にあって、おかげの中に降ることも、照ることもあっておるのであるのであるから、それを有り難しと、受けられる様な心なのである。眞の信心とは、そうゆう事。迷いが起こらぬとゆう事だけではない。このまま目をつぶっても、いとわんとゆう事。
 云うなら、親先生のお取次を頂いて、起こってくる事なのであるからと云うのである。神様の御都合に違いない。そうゆう眞の信心が、しかも家族勢を揃えた信心になってくる時に、これは偉大と言う言葉をも、偉大な神様の働きを受ける事が出来る。いわば一人二人では持ち上がらぬ重いものでもです、家族中の者がそうゆう心を合わせて、一心にすがるから持ち上がるのであるから、持ち上がる道理じゃとおっしゃる。そうゆう信心が家族勢を揃えた信心とゆう事になる。
 けれども皆が初めからと言う訳にはいかんから、まず信心を頂いて、毎朝参っとる皆さん達が、そこんところを把握しなければならない、一生かけての信心、どんな事の場合でも迷わないとゆう信心、そうゆう信心を頂いて一つ頼まないかん。「氏子が神と仲良うする信心」そうゆう時に、いよいよ神との中が深いものになっていく。世間の者が何と云おうがです、二人をさこうとする事があってもです、そうゆう働きがあればある程、二人は結ばれていく。かえって強い力で一緒になっていこうとする。そうゆうものが信心にもなからにゃいかん。
 迷信心、迷わされる様なものが私どもにはある。だからそうゆう二人の中に水をさす様な事があっても、「いいえ、そげなこつじゃない」と云えれる様なものをお互い持っておらねばなりません。それもそうかもしれませんのと云うたんでは、もう迷うとる。水をささされば、さされる程堅く結ばれていく。いよいよ神様へ近づいていこうとする信心、神といよいよ仲良うする信心。難儀が起こってきたら、神を恐れる様な信心ではならぬ。神に近寄るようにせないかん。だから神に近寄るとゆう意味に於ても、仲々チャンスがなければ出来ない。そうゆう迷いでも起こる様な時程、いよいよ神様に接近する事が出来る絶好の機会であるとゆう事を私の信心体験からもそれが云える。
 何か大きな節に直面する度に、飛躍してきた、節の度に神様に接近してきたとゆう事、しかもそうゆう信心が、「家族勢を揃えて」そうゆう理想的な信心をしてきたと思う。いよいよ難儀な時にも家族一同、勢がいよいよ打って、一丸になった事。家族勢を揃えて信心が出来たおかげで今日私はおかげを頂いております。
 甘木の四十年の記念祭の時、初代の先生が、安武松太郎が願うた事が願いどおりにでもなっとったら現在の甘木はなかったと云われておる。云うならば信心しておって、「どうして、こうゆう事が」とゆう様な事がおありになったんじゃろうけれども、そのたんびにやはり神様に接近しておいでられたのであろうと思う。何の度に元気喪失、元気がなくなるとか、迷いが起こるとかでは今日の御理解は分からない。「氏子が神と仲良うする信心、神を恐れるようにすると信心にならん、神に近寄るようにせよ、人に誘われて、仕様事なしの信心は、附焼刃の信心じゃ、附焼刃では取れやすい」初めてと同じように、附焼刃ではいけない、その身から打ち込んでの信心「真の信心をせよ大勢掛け声、力を揃えれば持ち上がる。ばらばらでは持ち上がらぬぞ、家内中勢を揃えた信心をせよ」中心である私が真の信心を目指しておらねばいけない、それが家族中におよぼしている。
 そうゆう中からいよいよ強い、普通では考えられないおかげが頂けてくる様になるのです。お互い信心させて頂くのですから、その身から打ち込める信心を願わないけん、しかも、それが自分一人ではなく、家族中の者がとゆう事になってくる時に、そこに家族中の助かりがある。何かとゆう時に迷いが起こる様じゃつまらん、そん時にもぞっこん打ち込めるものを頂いておきたいですね、どうぞ。